Opatija(オパッツィア) 
5月31日 6日目


ブレッドからモトヴン、フムを訪ねた後オパッツイアへ。
今日から4泊です!          

Bled − Ljubljana(リュビリアーナ) − Groznjan(グロジュニャン) − 
Motovum(モトブン) ー Hum(フム) − Opatja(オパッチア) 

5月31日
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Ucka(ウチカ)トンネルをくぐるとOpatjiaが目の前に!
オーストリアでは35度もあった温度がOpatijaに入ると急に涼しく肌寒く感じるほど。 
猛暑のオーストリアから快適な避暑地へ。気温27度です。 

Opatijaの平均温度は夏は21度、冬は7度。
ウチカ山からの風とアドリア海の温暖気候の影響らしい。。

ホテルの前はアドリア海。紺碧の色が輝いてます。
海岸線には12kmに渡るプロムナード!
そよそよ風吹かれながら歩くと、気分は上昇、リフレッシュ!
賑やかなお土産屋サン、市場、マーケット たっのしいーーー!!

Opatija、オパッチアって可愛い名前ですね。私は名前に惹かれる癖があって、
5年前にココを訪ねたときも、その名前が気に入ったから。。。

Opatijaの名前は実はベネデイクト派の「僧院」からきています。
クロアチア語でOpatijaは「僧院」です。

12世紀に、Opatijaにベネデイクト派の修道院「聖ヤコブ教会(St. Jakob)」が
建てられました。海岸通りのプロムナード、「カモメを抱く乙女像」を通り過ごし
て左にずんずん進むと「聖ヤコブ教会」に出ます。

聖ヤコブ教会は、Opatijaの地の利のよさからイストラ半島など近隣と交易が好調で、
小さいながらも豊かな経済力をつけるようになります。

そして、更に、高収入を得るために、その所有者を度々変え、「聖ヤコブ教会」の
所有者は裕福なRijiekaの貴族の間を転々とします。

しかし、19世紀になるとRijekaはOpatijaよりも他の近隣諸国との交通網を整備し、
Opatijaを主要路線からはずし、Opatijaを見向きもしなくなります。

しかし、1838年、Rijeka〜Opatija間に道路が開通しました。これでRijeka〜Opatija
間の距離は縮まり、Riekaの富裕層は再びOpatijaに目を向けるようになり、
Oparijaの発展が始まりました。

1844年、Rijekaの貴族がOparijaの聖やコブ教会の直ぐ側にサマーハウスを建て、
その名前を妻の名前を取って、「Angiolina」と名づけました。 ヴィラ.アンジョリ−ナ
の誕生です。ヴィラのオープン祝賀会には世界各国からの賓客が訪れ、これが、
Opatijaのリゾート地としての始まりとなる。

ヴィラ.アンジョリーナは敷地内に珍しい南国からの植物を植え、ヨーロッパの上流
階級の人々を招待します。ハプスブルグ皇帝フェルヂナント一世とその妻もその例
ですが、彼等が招待されて以来、急速にオパッツイアはオーストリアの貴族の間で
有名になり、こうしてオパッツイアは保養地として広く知られるようになります。

その後、このヴィラ.アンジョリーナの敷地はウイーンの鉄道会社に買収され、
ホテル.クヴァルネルがオープンします。それを皮切りに、インペリアル.ホテル
がオープン、オパッツイアはリゾート地として発展して行きます。

ヴィラ.アンジョリーナとアンジョリーナ公園はそのままの姿で残っています。

山あり海ありの絶景ンのオパッチアは、ミラノ、ウイーン、ミュンヘン
からわずか500km、バルカン半島の入り口として、交通の便は抜群、
心身ともにリフレッシュしたい時には直ぐ足を伸ばせますね。


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